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プリーズドンゴーエニモー

『chatmonchy has come』/ チャットモンチーの一人称 <1>

 『chatmonchy has come』から『共鳴』までチャットモンチー横断マラソン始まりました。何でそんなこと始めたのかは前のエントリに書いたので、読んでない方はよかったら読んでみてねっ。

 

ddfl.hatenablog.com

 

 第一回目の今回は、記念すべきメジャーデビュー盤である、1st mini albumの『chatmonchy has come』を取り上げたいと思います。

chatmonchy has come

リリースはなんと2005年。もう10年以上も前になるんですね。無骨なようでいて人懐っこく、繊細なようでいて図太い。そして何より素直でありながら、強い反骨心も顔を覗かせる楽曲たちは今聴いてもなお、変わらぬ魅力を放っています。

 

 …という書き方でもいいんですが、こういう内容はどこかで誰かがもっといい文章を書いているでしょう。なのでワタシは別の方向から行ってみたいと思います。そんな訳でどこに注目してみるかというと、チャットモンチーの使う一人称についてです。

 

 一人称。ここを見ればその歌詞が、何を表しているかだいたい分かるのです (多分ネ!)。真っ先に分かるのが歌詞の登場人物の性別ですね。使われた一人称が「僕」ならば男性でしょうし、「私」ならば女性でしょう。とはいえアーティスト自身と歌詞の性別が一致することは必ずしも重要ではなく、例えば女性アーティストの歌う「僕」に、さほどの違和感を抱くことはないかと思います。これはなぜかと言うと、必ずしも一人称が特定の個人を指していない場合があるからですね。この辺のハナシはまたちゃんと改めて書けたらいいなあ (よって省略)。

 

 では、チャットモンチーはどのような一人称を使っているのでしょうか。ご存知の通り、チャットモンチーはメンバー全員が作詞するバンドです (しかもほとんどの曲は詞先で作る)。なのでえっちゃん、あっこちゃん、クミコンのそれぞれがどのような一人称を使っているかを分けて考えてみる必要がありそうです。

という訳で、まずは『chatmonchy has come』においてどんな一人称が使われているのかを見てみることにしましょう。あと、補足的に『耳鳴り』も見てみます。文章にすると読みにくいので表にしてみますね。

 

表1 : 『chatmonchy has come』における作詞数、および一人称

作詞者

作詞数

一人称

橋本絵莉子

2曲 (“惚たる蛍”“夕日哀愁風車”)

「私」

福岡晃子

1曲 (“ツマサキ”)

「私」

高橋久美子

2曲 (“ハナノユメ”“サラバ青春”)

「僕」

その他

橋本・福岡共作 (“DEMO、恋はサーカス”)

なし

 

表2 : 『耳鳴り』における作詞数、および一人称

作詞者

作詞数

一人称

橋本絵莉子

4曲

(“どなる、でんわ、どしゃぶり”“恋愛スピリッツ”

“終わりなきBGM”“ひとりだけ”)

「私」

福岡晃子

6曲

(“東京ハチミツオーケストラ”“さよならGood bye”

“おとぎの国の君”“恋の煙”“プラズマ”“メッセージ”)

「私」「わたし」「僕」

高橋久美子

3曲

(“ウイークエンドのまぼろし”“ハナノユメ”

“一等星になれなかった君へ”)

なし

 

 やや意外だったのが、あっこちゃんは漢字の「私」も使うんですね。“染まるよ”や“Last Love Letter”の印象が強いので一人称はひらがなの「わたし」表記がほとんどかと思いきや、『耳鳴り』では「私」「わたし」表記のどちらもありました。そしてクミコンの歌詞はこの2枚に限るとほとんど一人称使ってないですね。この辺りも何か象徴してそうなので、のちのち考えてみることにします。

 

 さてここから本題ですが、面白いのがえっちゃんの「私」なのです。今作に収録された“惚たる蛍”はインディーズ盤チャットモンチーになりたい』にも収録されており、アレンジ含めいろいろと違っていて興味深いのですが、一番の変更点はAメロの「私」を「あたし」と歌っているところでしょう*1。録音物はともかくライブはどう歌ってるのかと思い、レストランシリーズ (スープ、メインディッシュ、デザートに収録) の“惚たる蛍”を観たけど全部「わたし」でしたね。まあ『〜になりたい』が2004年、『〜has come』が2005年、『〜デザート』収録の“〜蛍”が2007年 (映像ではこれが一番古い) なので何もおかしくないけれど。

 (参考までに余談をば。いろいろググるとオークションサイト等でインディーズ盤のブックレットを見ることができますが、“惚たる蛍”の歌詞における一人称は全部「私」表記になっている。アレ?てっきり「あたし」表記してると思ったのに。まあ別に漢字でも「あたし」と読めますが。)

 

 閑話休題。“惚たる蛍”のみならず、インディーズ期でのチャットモンチーはほとんどの一人称が「あたし」となっており、何らかの変化を窺わせます。メジャーデビュー時に「一人称は私に統一しなよ、そっちのほうがいいよ」とか言われたんじゃないですかね (エ、邪推だって? でもいしわたり淳治すら言ってるけど、バンド名が幼いって相当ツッコまれたらしいしどうでしょう)。

 もちろん、インディーズ版“惚たる蛍”でも1番Aメロ以外は「わたし」歌唱なのだから、音で選んでいるんじゃないかという意見もあるでしょう。もちろんその意見は正しいと思うし、サビ頭が「あたし」の場合と「わたし」の場合、音的に情念を込められるのは「わたし」になるでしょう。

 

 しかし、ここでひとつ情報を出しましょう。これは『耳鳴り』のリリース時の対談記事 (WayBackMachineで復活) なのですが、

 

https://web.archive.org/web/20070814041719/http://www.towerrecords.co.jp:80/sitemap/CSfLayoutB.jsp?DISP_NO=003783

 

 記述なのでやや信頼性に欠けるものの、対談の中でえっちゃんの一人称が「あたし」になっていますね。過度に創作物と作者を同一視するのはイヤなのですが (とはいえこの対談記事の中でも“恋愛スピリッツ”や“どなる、でんわ、どしゃぶり”はほぼ実話って言ってることだし大目に見てネ)、多分「あたし」の方が素に近い一人称なのでしょう。だからこそ、メジャーデビュー時における歌詞の一人称の変化は、ジツは結構大きいトピックスだと思うのです。

 

 なぜ大きいトピックスなのか?では想像してみてください。一人称が「あたし」と「わたし」の歌詞では、それぞれにどんな印象を抱くでしょうか。「わたし」の方は何となくニュートラルな印象ですね。

 一方で「あたし」の方には、明るさ・活発さという印象を受けるでしょう。しかしその反面、特に書き言葉の分野ですが、「あたし」という一人称に「年不相応、幼稚」といったような、ネガティブなイメージも持たれやすいように思えます。もちろん実際のことは分かりませんが、先述したバンド名へのツッコミもあることだし、無用に幼いイメージを持たれることを回避するために一人称を変えたというのも、あながちありえない話ではない気がするのです。

 

 だけどそれだけじゃ面白くないですね。理由はともかく、このメジャーデビューというタイミングで一人称を変えたということが、もっと別の何かを象徴していたようにワタシには思えるのです。ここからはそれが何なのかを考えてみることにします。ちなみにここが本記事の折り返し地点です。

 

 さて、一人称の変更が何を象徴しているのかを考えることにしたんでしたね。そのためにはまず、『〜has come』に収録されたふたつめのえっちゃん作詞曲、“夕日哀愁風車”の歌詞の一部を見てみましょう。これ、えっちゃんの歌詞の中ではかなり異色だと思うのですが、どうでしょう (公式のディスコグラフィーによると最初期のナンバーらしいので納得ですね)。

 

ひとりになれなくて 思いが伝えられなくて

こわくて さびしくて これじゃやっていけないわ

 

ちゃんと生きていけるだろうか?(ちゃんと大人になれるだろうか?)

誰かに言いたくても口に出せない (夢ってなんだろうか?)

夕日哀愁風車 / チャットモンチー

 

 

 まず、歌詞の「ちゃんと生きていけるだろうか?(ちゃんと大人になれるだろうか?)」の根っこが何かというと、「ちゃんと生きなければならない (大人にならねばならない)」でしょう。そして「ちゃんと生きる」ことや「大人になる」ことが何かと言うと、「思いが伝えられなくて」=「意思を表明する」ことだったり「涙をぬぐって進んでいける」ことだったりと示される。いしわたり淳治デビューに寄せてという文章にちょうどいい記述があったので引用しますが (直リンクじゃないのでページ内のSPECIALから探してネ)、彼が言うところの「清潔な生い立ち」と無関係ではないでしょう。

 

 しつこいことは承知でもう一度注釈したいのですが、だからといって「えっちゃんはこういう人だ」という議論がしたいのではありません。音楽という表現形態である以上、誰が作って誰がパフォーマンスしたかはとても重要な要素ですが、その背景を探ったところで結局は憶測にしかならないからです。それよりも、ここでは表現されたものから何を受け取れるかを重視したいのです (何のこっちゃって?要約しましょう、つまりはワタシの自分語りを聞いてくださいってことですネ)。

 

 話を元に戻しましょう。“夕日哀愁風車”のテーマとは先述のとおり「大人になること」=「成長すること」であり、とりわけ歌詞の中で強調されるのは成長に対する「苦しさ・不安」なのですが、ここにえっちゃんの筆致が出現するわけです。最も顕著な一文を引用しましょう。

 

楽天的な私はどこにいった? (昔に戻りたい)

夕日哀愁風車 / チャットモンチー

 

 

 これは現状の不確かさからくる不安ですね。しかし当然ながら「成長したくない」から“昔に戻りたい”のではなく、「成長しなければならない (と思う)」から苦しいのであって、逃避として“昔に戻りたい”と願うわけです。○○しなければいけない (のにできない)、これがえっちゃんの作詞に通底する葛藤であり、ワタシはそこに引き裂かれている何かを見るのです。

 

 では何に引き裂かれているのか…と煽ったわりにはさらっと書きますが、これは「理想」と「現実」だと言っていいでしょう。話が先のアルバムにまで及ぶためにここではあまり項を割きませんが、このテーマは現時点 (2017年10月) で最新作の『Magical Fiction』収録の“ほとんどチョコレート”まで、形を変えながら続いていきます。

 

 では具体的にどう表現されているのか、『耳鳴り』収録の2ndシングル、“恋愛スピリッツ”を例に見てみましょう。これもインディーズ時代からある曲ですね。

 

あの人をかぶせないで あの人を着せないで あの人を見ないで私を見てね

恋愛スピリッツ / チャットモンチー

 

 

 …さっき書いたことそのままやん!理想vs現実。曲聴けばいいんだからこの文章はもう蛇足にしかなりませんネ。でもあとちょっとだけ続きますよ。何もそんなに思い詰めなくても、と思う方もいるでしょう。けれど、だからといって簡単に割り切れないからこそ音楽に昇華されたのだろうし、ワタシはそこにある必死さに胸を打たれるわけです。えっちゃんの歌詞に浮かび上がる切実さ・生々しさとは、引き裂かれることは辛いのだ、ということに詩情を見出したものに他なりません (それを言葉にできるから彼女は天才なのです)。この自己愛的な情念の強さが、(とりわけ) 初期チャットモンチーの原動力だったのではないかと思います。そして、その情念がワタシにとってチャットモンチーの何よりの魅力なのです。

 

 さて、ここまで読んでくださった忍耐強い方ならなんとなく覚えがあるでしょう…そういえば他にも分断されていたモノがありましたよね?そう、「あたし」そして「わたし」という一人称です。

 『チャットモンチーになりたい』以前には存在し、『chatmonchy has come』以降ではその姿を消す「あたし」という一人称。ナルシスティックさを含むその甘美な響きは、理想と現実、成熟と未熟の間に揺れる歌詞をひそかに象徴していました。それがメジャーデビューというタイミングで「わたし」に統合されたことには一抹の寂しさを感じるものの、『チャットモンチーになりた(い)』かった「あたし」が、『chatmonchy has come = チャットモンチーがやってきた』と宣言する「わたし」になったのだから、実はとても自然なことだったのかもしれません。ひっそりとした、けれども大きなこの変化に偶然以上のものを見てしまうのは、ワタシがチャットモンチーの、とりわけえっちゃんの狂信者だからでしょうか。

 

 …エ?散々電波ばら撒いといて結論はそんなこじつけみたいなオチかよ、って?ええ、その指摘はごもっともです。本人たちも絶対こんなこと考えて曲作らないでしょうしねぇ…。デモ…デモ…ワタシはチャットモンチーの考えてるんだか考えてないんだか分からない、けど何でかそうなっちゃってる (風に読める) 部分がダイスキなのです。ですから多少の暴走は許してね!

 冗談はさておき今回のエントリではえっちゃんの歌詞についてしか書いてないので、次回『耳鳴り』ではあっこちゃんとクミコンの歌詞について書こうと思っています。よかったら読みに来てくださいな。

 

 

 

全曲ひとこと感想コーナー

 

M-1ハナノユメ”

 サビのコード進行が G – A – D – G – F#7 - Bm7と展開し、アルバムを象徴するような進行を見せる。“ハナノユメ”だけに限らず、チャットモンチーはIV度はじまりをそこそこ使いますね。

 ついでなのでもうひとつオマケに言っておくと、F#7などの5thのシャープ音がコードに頻出するワリに、メロディーの5thはシャープしないのがチャットモンチーメロディーの特徴です。そしてメロディーのはじまりを3thにすることで調性をハッキリさせ、その後コードに5th#を入れ短調感を出す、これがチャットモンチーのハーモニーにあるトゲの正体なのでは。おや?ハナノユメで歌っていることそのままじゃないか。

 

M-2 “DEMO、恋はサーカス”

 詞がえっちゃんとあっこちゃんの共作。でもどういう風に共作してるのかが分からない。おそらくほとんどあっこちゃんの作詞で、えっちゃんが“なんで〜”の部分を足したんじゃないかなあと推測。内容はあっこちゃんのテーゼなのか、この後も“ときめき”などで出てくる感情ですね。

 

M-3 “ツマサキ”

 特徴的なコード進行を見せる曲。実際に書き出してみよう。AメロがI-IVの繰り返し、BメロはVIm-Vの繰り返し、そしてサビでIV-Iの繰り返しという構成 (微妙に変化はあるが)。超シンプル。コード進行の原理原則に (厳格に) 従えばBメロ最後のVからサビ頭IVは禁則事項だが、ギターのフィードバックが無理やりにでももっていきますね。と思いきや2番では進行がVIm – V – IV –Vとなり、フランジャー+キメでまたしても強引にもっていく。VからIVに進行する柔らかさ (解決感のなさ) を、いかにしてパンチのあるサビにするか工夫したのでしょう。IVをどう使うかがチャットモンチーのコード進行を決定づけているような気がしますね。チャットモンチーの曲があんまり弾き語り感ないのもこの辺りに由来しそう。

 

M-4 “惚たる蛍”

 初期チャットモンチーの代表曲 (かな?)。本文では“夕日哀愁風車”のことばかり書きましたが、“惚たる蛍”も同じテーマを持っていると思います。初期のえっちゃんはひとつの事象をあっちからこっちから書いていますね。

あぁ 私はあなたのその目に左右されていて あぁ 私はあなたにこの目も向けられない

と「目」に主眼を置きながら、違う状況を描き出しているラインが白眉。加えて言うならば、それが全て「私」サイドから語られているのがポイントですね。

 

M-5 “夕日哀愁風車”

 裏打ちで爆走するナンバー。もう本文でいろいろ書いたけど、あとひとつだけ。大サビで盛り上げ、決意めいた宣言がなされたのちに最初のナーバスなAメロに戻る構成がこの曲のキモですが、こうすることによってリアリティある表現になるのだと思います。当然それは物事には裏も表もあるんだよ、なんてことではなく、成長することはそもそも基本的にナーバスなことなのだ、と言っているのです。その不自由な自由さを受け入れる (≒諦める) ことが成長の一側面だと思いますが、まだこの曲ではそこに気づいていなさそう。ただし、なんとなく勘づき始めているので居心地が悪いのですね。そういうドキュメントさが素晴らしい。この時期にしか書けないでしょう (なんて偉そうなんだ)。

 

M-6 “サラバ青春”

 サビ頭のI – IIIの時点では全然サラバしてない (?) サラバ青春。しかもIIIの上で、メロディーは5thのナチュラルですよ。なんでそんなこと思いついたんだ…とはいえこの5thの使い方は、“ハナノユメ”のところで書いたチャットモンチーメロディーの体現ですね。こんなヒネたメロディーの乗せ方するくせに、終わりはIV – Vでストレートに締めるあたり、つくづくチャットモンチーは反骨心の塊でありながらも素直なんだなあと思います。

 

↓”サラバ青春”が使われていますね

 


103系引退スペシャルムービー 「LOOP 大阪環状線」

 

10/23 画像、リンク、ムービーを追加。

*1:厳密に言えばえっちゃん作詞曲だけではなく、あっこちゃん作詞曲の”素直”もアマチュア版では一人称が「あたし」になっている