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プリーズドンゴーエニモー

はじめに

ブログをはじめるにあたって

 

チャットモンチーに関する面白い文章が読みたい」

 

 始まりは、こんな願望でした。自分のチャットモンチー評に対して自信がなくなっていた時期でした。自分で書こうと思った理由は、自分と似たようなことを考えている人が見つからなかったから。いくら探しても出てこないだろうし、逆にこれはチャンスだと思ったのです。

 

 内容は、できるだけ分かりやすく、そして客観的に書こうと思いました。ある程度書いてから振り返ってみると、まんまと、自分の理想や願望ばかりの内容でした。極私的な内容を、それでも読み物として成立させるのは、とても大変で、夜中に書いたラブレターを読み返すような不思議な感覚でした。

 

 いつも素晴らしい音楽を届けてくれるチャットモンチーに、感謝です。

 

 …めちゃくちゃ失礼な序文ですね。わざわざこんなブログを見つけてくれた人には説明する必要ないと思いますが、一応ネタばらしするとこれは『橋本絵莉子波多野裕文』リリースにあたり、えっちゃん (橋本絵莉子) が書いた文章のパクリです。別に茶化してるわけではなく、ただちょっとだけファン心理が歪んでるだけなんです、大目に見てくださいネ。

 

 それはさておき、ワタシはチャットモンチーの、とりわけえっちゃんの狂信者です (なにがさておきなんでしょうね)。思春期真っ只中に“橙”を初めて聴き、「これは自分のことだ」と心臓を撃ち抜かれて以来、彼女の存在は神にも等しいものになったのです。今振り返れば、自己愛が混じった剥き出しの歌詞が当時の気持ちを代弁してくれたように感じたのでしょう。

 

 しかしその一方で、「チャットモンチーの持ってるナルシシズムに言及してる人、あんまりいないな」と思います (ナルシシズムという表現が強すぎるのは理解してます)。というかワタシの第一印象が“橙”なので、チャットモンチーナルシシズムを歌うバンドだという印象なのですが、どうにも同じような意見に出会えません。いろんなブログを読んでも、amazonのレビューを読んでも、公式のディスコグラフィーを読んでも出会えない。

 ええ、分かっていますとも。おかしいのはどう考えてもワタシのほうです。ワタシが言うところのナルシシズムに言及せずとも、同じ論旨を持った文章はいくらでもありました。というかそもそもナルシスズムじゃなくてアイデンティティとか自立のハナシじゃない?とも思いました。それに、こんな微に入り細を穿つようなマネをしていったい何になるのでしょう。そんな風にして駄文をこねくり回すより、チャットモンチーは素晴らしい、たったその一言で充分でしょう?

 

 そうなのです、チャットモンチーは素晴らしいのです。けれど素晴らしいがゆえに、ちゃんと語られることが少ないように思えるのです。当たり前のことほどわざわざ語らないものでしょう。だからこそあえて、何が素晴らしいのかを語るという無粋をやりたいのです。

 

 ではチャットモンチーの魅力とは何なのか、と問われればやはり、そのまっすぐさだと答えます。強さにも弱さにも、いいところにも悪いところにも真正面から向き合うその切実な音楽に、ワタシは強く惹かれてしまうのです。

 …なんて書きつつ自分でツッコみますが、まっすぐさって何でしょう。抽象的ですね。ここはもう少し意図を正確にするために、ワタシはチャットモンチーのどこにまっすぐさを見るのか、と書くべきでしょう。強さにも弱さにも、いいところにも悪いところにも真正面から向き合う、と先述しましたが、それはどこからそう考えたかを追求するべきなのです (少なくともこのブログではね)。

 

 ではその根拠を。詳しくはのちのエントリに譲りたいと思いますが、ワタシはチャットモンチーのまっすぐさの根元には、倒錯性が潜んでいると思うのです。念のために書いておきますが、倒錯性とは、東京 – 徳島 (地方) だとか、男 – 女のような対立構造のことではありません。チャットモンチーが「徳島発のガールズバンド」として紹介され、本人たちもそのことに対して自覚的であったのは各所で語られている通りですが、それはあくまでチャットモンチーの持つ属性のひとつに過ぎません。ワタシにはそういう方向の話をする能力もやる気もないので、このブログで書くつもりはないです。

 

 それよりもワタシが言いたい倒錯性とは、“恋愛スピリッツ”のようなことなのです。最後で

だからあなたは私を手放せない

だから私はあなたを思っている

に転換されるダイナミズム。思わずガッツポーズですよ。これ冷静に考えれば共依存だと思うんですけど、ここに“恋愛スピリッツ”なんてタイトルをつけて詩情を見出してしまう (音楽にしてしまう) のがチャットモンチーであり、橋本絵莉子なのです。この感覚に、ワタシはまっすぐさを見つけるのです。そしてワタシはそこにめちゃくちゃ肯定感を感じるのですが、皆さんはどうでしょうか。こういうことを書きたいのですね。

 

 そんなわけでこの歪んだ思いを書くためにあらためて全アルバムを聴き直したんですが、その結果ちょっと方向を転換することにしました。というのもワタシ、最初はえっちゃんの話題しか書くつもりなかったんですが、想像以上にチャットモンチーは、作品が進むごとに変化しているのだと感じたのです。そしてそれがかなり必然性のあるものというか、要するに面白かったんですね。特にクミコンの詞はこういう機会がなかったら、その面白さに気づけなかったかもしれないぐらいインパクトがありました。

 なので、『chatmonchy has come』から『共鳴』までチャットモンチーがどう進んでいったのかを、リリース順に書いていこうと思います (ぶちあげたなあ)。時系列順に追っていくことで、表現されたものの点と点が線を結び、何かしらの像が浮かび上がってくるでしょう。そしてその果てにあなたをワタシと同じような狂信者に洗脳できれば最高ですネ。

 

 さて、そのチャットモンチーの歩みを探る方法ですが、基本は歌詞を中心に見ていきます。当然音楽なので聴くのが一番だし、本当ならアレンジについても触れていくべきなんでしょうが、余程のことがない限り歌詞だけでいきます。みなさんもご存知の通り、チャットモンチーはほとんどの曲が歌詞先の作曲なのでまあ筋道は通るかなと思います。

 

 …おそらく何回も注釈を入れることになるとは思いますが、歌詞に焦点を当てるとはいえ、かといって「作詞者がこういう人だ」という議論をしたいのではありません。当然、誰が作って誰がパフォーマンスしたかは表現において大事な問題ですが、創作物と創作者を過度に同一視しない、というのがワタシのスタンスです (その視点でいくと結論が推測にしかならないので)。話の展開上、「◯◯の歌詞に通底する論理はこれです」みたいな書き方を多用すると思いますが、これは創作者そのひとを指しているのではなく、どこに表現的なツボがあるのかを議論したいと思ってくださいね。

 

 そして最後に余談を。ここまでかなり偉そうなことを書いておきながら、ジツはワタシ『生命力』でチャットモンチーに出会い、『変身』でいったん離れ、『橋本絵莉子波多野裕文』を聴いて『共鳴』に帰り、『Magical Fiction』が久々のリアルタイムとかいう、けっこうミーハーな遍歴です。なので、アレです、見当違いなこと言っても生暖かい目で見てくださいネ (オイ)。では以降のエントリでお会いしましょう。