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プリーズドンゴーエニモー

『耳鳴り』 / チャットモンチーの一人称 <2>

 さあ、『耳鳴り』の時間ですよ。初のフルアルバムにして13曲入り。そのタイトルが示す通り、チャットモンチーのアルバムの中では最も内省的な面を持ち、一人でじっくりと向き合うのがぴったりな作品ですねっ。ワタシがチャットモンチーのアルバムを聴きたいと思った時に、だいたい手を伸ばしてきたのはこの『耳鳴り』であり、個人的に思い入れの強いアルバムでもあります。収録曲のすべてが徳島時代に作った曲だという、持ち札のみで勝負したかのような切迫感・ヒリつきさ加減がたまらなく好きなのですね。

 

耳鳴り

 

 しかし、『耳鳴り』は、後のアルバムと比べると過度期といった印象を受けるアルバムでもあります (1stアルバムなのに変な書き方だな?)。他アルバムと比べて違いを感じるのはアレンジ面であり、とりわけギターが多くダビングされているように思えます。次作『生命力』以降、チャットモンチーのアレンジはギター1本、ベース1本、ドラム1台で成り立つものが増えていくのですが、『耳鳴り』の時点ではかなりの曲において複数のギターフレーズが録音されています。具体例で言えばM-1“東京ハチミツオーケストラ”のサビ部において、左右チャンネルで違うギターのバッキングが入っていますね。こういうアレンジは以降、ホントにびっくりするぐらいの潔さで減っていきます。

 これは3ピースという最低限の楽器数で、いかにアンサンブルを成立させられるか、そしてライブにおいて3人のみで再現できるか、ということに意識が向いていった結果でしょう。様々なインタビューで3ピースへのこだわり、自分たちはライブバンドだという自負を語っていたチャットモンチーらしさの表れでもありますね。ワタシは『生命力』以降のアレンジに慣れていたので、むしろ『耳鳴り』のアレンジ面をちゃんと聞いた時に、重ねられたギターの本数にびっくりしました。

 

 あと、他に顕著なのがギターソロです。これまた『生命力』以降、ギターソロの時にバッキングする (伴奏する) ギターがないパターンが激増します。しかもギターソロのある曲が増えているのにも関わらず、ですよ。『耳鳴り』ではギターソロがある4曲全てでバッキングのギターが鳴っており、メロディーを弾くギターが出た場合は必ずバッキングギターが録音されていますが、『生命力』ではギターソロのある10曲中、バッキングがない曲がなんと6曲も存在します。これを可能にするのは、12フレット未満のフレットでソロを弾くことの多いえっちゃんのプレイスタイルだと言えるでしょう (アンサンブルの中域がスカスカになりにくい、ただしならないとは言わない)。

 このプレイスタイルですが、超初期曲の“さいた”でもやっているので元から得意なスタイルなのでしょうね。つまりギターソロに関しては、『耳鳴り』を経て会得したスタイルというより、『耳鳴り』では多重録音でやってみるか、といったほうがニュアンスは正しそうです。

 

 さて、そんな訳で『耳鳴り』はアレンジの面において、他のアルバムと少し違うアルバムということが伝わったでしょうか。そしてもうひとつ、後のアルバムと趣を異にするところがあります。それは、クミコン (高橋久美子) の作詞が少ない、ということです。彼女の在籍時、3人の中で最も作詞していたのはクミコンでした (ちなみに一番少ないのはえっちゃんで、あっこちゃんはクミコンと同じくらい書いています)。

 

 余談ながら書いておくと、フルアルバムだけで見ればあっこちゃんとクミコンは同じくらいの作詞数なのですが、カップリングを見るととにかくクミコンの作詞が多いのです。シングルのカップリングを収録したアルバムである『表情<Coupling Collection>』は19曲という大ボリュームなのですが、なんと半分がクミコンの作詞 (!) です。これはスゴい。ワタシはチャットモンチーのシングルがリリースされる時、作詞のクレジットを見るのが楽しみなのですが、特に『橙』から『Last Love Letter』までのクミコンのワーカホリックぶりにはワクワクさせられていました。かなりのハイスピードでシングルをリリースし、しかも必ず3曲のうち1曲は作詞曲が収録されるという、あのパワーは見ていて痛快だったのです (しかし冷静に考えるとかなりスゴいことやってるな?)。

 

 閑話休題。そんな多作なクミコンですが、この『耳鳴り』では3曲のみの作詞ですね。どの曲を作詞しているのか、前回作った表で見てください。

 

表1 : 『耳鳴り』における作詞数、および一人称

作詞者

作詞数

一人称

橋本絵莉子

4曲

(“どなる、でんわ、どしゃぶり”“恋愛スピリッツ”

“終わりなきBGM”“ひとりだけ”)

「私」

福岡晃子

6曲

(“東京ハチミツオーケストラ”“さよならGood bye”

“おとぎの国の君”“恋の煙”“プラズマ”“メッセージ”)

「私」「わたし」「僕」

高橋久美子

3曲

(“ウイークエンドのまぼろし”“ハナノユメ”

“一等星になれなかった君へ”)

なし

 

 エ?歌詞に出てくる一人称が何で書いてあるかって?そう、ジツはこのエントリのテーマ、チャットモンチーの使う一人称についてなのです (今更言うか?)。それはさておき、『耳鳴り』においてクミコンは一人称を使っていません。しかし全く使わないという訳ではなく、前作『chatmonchy has come』収録の“サラバ青春”では「僕」が出てきますね。という訳で、「使う / 使わない」ことも含めて、クミコン作詞に出てくる一人称について見ていきたいと思います。

 

 さて、せっかく“サラバ青春”の話題も出したことですし、まずは“サラバ青春”を引き合いに歌詞を見てみます。

 

↓サラバ青春が使われています 


103系引退スペシャルムービー 「LOOP 大阪環状線」

 

 このセンチメンタルな歌詞にちょこちょこ混ざる短調っぽい響きがまさにチャットモンチーですね。サウンドについては前回書いたので置いておくとして、ワタシが知りたいのは、歌詞に出てくる「坂下食堂」は実在するのか、ってことです…なんてシラジラしいこと書いてみましたが、ワタシなんかよりもっと愛の深いファンの方々からすれば常識のようで、名前が違うものの実在らしいですね (ただし諸説あるようだ)。

 

 まあ店が実在したとしても名前までそのままにしないでしょう。とはいえ歌詞中にトランペットの描写が入ったりするのは吹奏楽経験者のクミコンならではという感じですし、体験したことが歌詞に色濃く現れているといった趣です。ならば「坂下食堂」もきっと、思い出の場所なのでしょう。

 

 しかし、(恐らく) 個人的な経験をベースにしながらも、この歌詞が日記ではない (≒創作・表現である) と感じるのはワタシだけではないでしょう。なぜそう感じるかというと、“サラバ青春”には物語があるからです。もう少し正確を期すならば、物語を語ろうという意思を感じるから、と言い換えてもいいですね。これはクミコンの歌詞において、かなり重要なウエイトを占めていることだと思います。彼女の歌詞が「小説的」と評される所以でもあるでしょう。

 

 具体的に見てみましょう。“サラバ青春”の中で、もし坂下食堂だけが「卒業」するだけならば、恐らく

 

なんでもない毎日が

本当は記念日だった (以下略)” 

サラバ青春 / チャットモンチー

 

 とは気づかないのです。しかし、歌詞の主人公も同じように「卒業」を控えたからこそ、

 

きっといつの日か笑い話になるのかな

あの頃は青臭かったなんてね

水平線に消えていく太陽みたいに

僕らの青春もサラバなのだね

サラバ青春 / チャットモンチー

 

  と、物事には終わりがあることに気づくわけです。ここに詩情が存在するわけですよ!“サラバ青春”に限らず、クミコンの歌詞ではストーリーと登場人物の関係性が語られることが多いです。「坂下食堂が卒業する」というストーリーだけではだめで、誰がそこに何を見出すか、こうして物語は物語られるのです。つまり、物語を語るということは人を語ることに他なりません。そういう訳ですから、クミコンの歌詞における視点は、人を語ることに向けられているのだと言えるでしょう。

 

 やっとこれで一人称のハナシができます…がホントに前振りが長いナァ。もったいぶるのがよくないね (自戒)。気を取り直しまして、“サラバ青春”では「僕」という男性一人称が使われています。しかし、だからといって歌の主人公が男性かと言うと、必ずしもそうとは限らないと思うのですが、どうでしょうか。

 かなりふわっとした印象で書きますが、“サラバ青春”に出てくる「僕」という一人称からは、登場人物の性別を示す一人称というよりも、表現する上での一人称、と考えるほうが自然な感じがします。これは物語を語ろうとするとき、とても高い親和性を発揮します。

 

 この表現上の一人称 (と便宜的に呼ぶことにします) は実際の性別と一致する必要はなく、そして複数所持することもできると思うのですが、みなさん何となく心当たりあったりしませんか?例えば、このブログでは一人称が「ワタシ」表記になっていますが、これはワタシにとって文章を書きやすい一人称なのです。真面目なこと書こうと思ったら「私」表記したいなと思うこともありますが、書いている内容が基本的にアレなので、せめて文体だけでも「ワタシ」と表記することでカタくならないようにしたいのですね。

 

 はい、ワタシの話は忘れてください。この表現上の一人称を使っている曲が『耳鳴り』にもあり、それはどの曲かと言うとあっこちゃん作詞曲、“おとぎの国の君”なのですね (余談ですが、ワタシ最近までこの曲はクミコンの作詞だと間違えて覚えてました。え?ファンなら間違えないよって?でも某歌詞サイトもクミコン作詞と間違えてるし、許してちょ!)。

 “おとぎの国の君”。見ての通りタイトルで「おとぎ」って言ってるので、ここでは物語を語りますよと宣言しているわけです。そして、歌われる「僕」からはどことなく性別不詳な感じがします。というよりも、特定の個人を指していない、英語で言うなら「Our」というべき「僕」だと思います。同じように、歌詞中の「君」は「You」ではなく「They」でしょう。

 

つまり“おとぎの国の君”は、喪失というごくパーソナルな内容を扱いながらも、どこかコモン (微妙なニュアンスの書き方だなぁ) なテーマを持っている気がするのです。それは以下のフレーズなどにあるように、孤独との向き合い方でしょう。

 

あったかい春の日差しも 寒空の下のココアも

君なしじゃただの白黒の絵 味気ないんだ

いつも潤んでた瞳は 僕が好きなとこだった

君なしじゃただの白黒の火 熱くないんだ

おとぎの国の君 / チャットモンチー

 

 とはいえ実際のところ、歌詞の内容はまるっきりのフィクションではなく、実話がベースでしょう。でもそれはどっちでもよくて、ある事柄のなかにストーリーを見出し、歌詞として抽出しているという結果のほうが大事です。ジツはあっこちゃんがこういう物語的な書き方をする歌詞は他にあまり見当たりません。だからワタシや某歌詞サイトがクミコン作詞と間違えたんだな!

 

 さて、ここまでの項ではクミコンの歌詞を中心にして、物語ること表現上の一人称について書いてきました。物語ることは人を語ることに他ならず、その形式上で効果を発揮する一人称がある、といったようなことですね。内容忘れた人はこの段だけ読んでくれればOKです。そして、この物語るという表現は、非常にメッセージの表明に向いた形式でもあります。これが今回のエントリ最後のテーマです。

 

 メッセージの表明、とか大層なこと書きましたが、チャットモンチーは高らかにメッセージを掲げることをそんなにしません。しかも今回取り上げるアルバムは『耳鳴り』という、未だ自分たちの中で鳴っている音楽、という意味のアルバムの曲たちです。そんなアルバムに、メッセージを声高に叫ぶ曲があるでしょうか…とは言いつつも、自分たちの中で鳴っているからといって、外に向かわないなんてことはないでしょう。むしろ内側に留まっているぶん、外に向かうエネルギーは大きくなることだってあるハズです。近くにいる人にはささやいても聞こえますが、遠い人には叫ばないと届かないでしょう。あれと一緒ですね (そしてそんなアルバムに、“メッセージ”というタイトルの曲が入っているのが面白い)。

 

 冗談はさておき、『耳鳴り』の曲たちにおいて一際目を引くタイトルの曲があります。それはクミコン作詞、“一等星になれなかった君へ”。すでにタイトルにメッセージが表明されているこの曲ですが、ここまで書いてきたクミコンの筆致が発揮された一曲です (とはいえ、勢いゆえの粗さもありますが)。この歌詞に書かれていることは、めちゃくちゃ乱暴に言うとオンリーワンであれということでしょう。歌詞を引用しながら、そのメッセージの背景を見てみましょう。まずは頭からBメロまでを引用します。

 

荷物まとめて この街を出ていったのは月曜日の夜のこと

足音もしなかった 足跡もなかった

 

荷物まとめて この街を出ていったのは月曜日の夜のこと

足音もしなかった 足跡もなかった

 

本当によかったのかな

本当に君はそれで

本当によかったのかな

一等星になれなかった君へ / チャットモンチー

 

 ここでの「君」は、“おとぎの国の君”と同じように「You」というよりは「Our」や「They」、極論「I」と読み替えてもいいような、要するに呼びかけの形をとっている気がします。そして大事なことは、自分が本当は何をしたいのかを見つめることだと示唆しています。一部中略して次にいきます。

 

本当は単純なこと

本当は素敵なこと

本当に簡単なこと

一等星になれなかった君へ / チャットモンチー

 

 かなり意訳してしまうので若干アレなのですが、「単純なこと」を認めるのは、「諦めること」と同義です。つまり、ここでいう「単純なこと」とは、ざっくり言えば「一等星になれ」るかもしれない可能性を捨てることです。ただし、諦めるの語源が「明らむ」であるように、諦めることははっきりさせるという意味でもあります。それは一見すると残念なことに見えますが、「本当は素敵なこと」なのですね。そして「簡単な」、(意訳すれば) 君には出来ることだと続くわけです。

 

 つまり“一等星になれなかった君へ”で歌われるメッセージとは、痛みや迷いを引き受けて、それでも前進できるということだと言えるでしょう。これは成長することへの肯定でもあります。“サラバ青春”にもあったように、クミコンの歌詞には成長することを肯定するものが多く、その姿勢がブレることもありません。そして誰かを肯定することとは、とてもパワーを要することです。彼女の書いた歌詞を前にすると、そのエネルギーの途方もなさに、思わずグッとくるものがあるのです (もしそれが脱退の遠因になったとしても)。

 

 …また例によって例のごとく、アルバムのハナシというよりは微に入り細を穿つような内容でしたが、いかがだったでしょうか。ワタシはこのマラソンを始めようと思うまで、クミコンの歌詞は成長をテーマにすることが多い、ということに全然気づいてなかったんですね (何を聴いてたんだろう)。だからこそ個人的には大発見だったのですが、実際に書いてみるとまぁ苦戦苦戦の連続でした。全然筆が進みやしない。だからこそもし他に、『耳鳴り』およびクミコンの歌詞には自信があるぜ!オマエは的外れなことしか言ってねえ!って人がいるならぜひ文章を書いてみてください。読んでみたいです!

 

 そして今回全然えっちゃんのハナシしてないな?そんなワケでこの狂信者ブログらしく最後を締めるなら、このクミコンの書くテーマとはえっちゃんのよく書くテーマと完全に裏表なんですよね。ふたりの歌詞からは現実を足場にして理想にもがき、そこから諦める (クミコン) ことと諦めない (えっちゃん) ことで全く逆の方向へと向かっている姿が見えてきます。もちろん、どっちが良くてどっちが悪いとかそういうハナシではなく、ただまるっきり違っているなというだけのハナシです。しかも、ワタシにとっては諦めない象徴の声であるえっちゃんが、諦める歌 (クミコンの歌詞) を歌うっていうのがアンビヴァレントで最高です。ひとつのバンドに複数の作詞者がいて、それぞれが違う持ち味を持っていたゆえの面白さですね。えっちゃんのハナシは以上です。

 

 さて次回予告ですが、今回のエントリでは「成長」という言葉を何度も使いました。でも結構乱暴に使ってしまったので、じゃあ成長するって何やねんということを2nd Album『生命力』をテーマに、うにゃうにゃと書きたいと思います (またエラい風呂敷広げたなあ)。あっこちゃんの歌詞に関する話題がないやん!と万が一にお怒りの方がいたら、スミマセン。3rdの『告白』の時まで待ってください (泣)。ここまで読んでくれてありがとう。もし体力残ってたら感想コーナーもどうぞ。またしても大したことは書いていませんが。

 

 

全曲ひとこと感想コーナー

 

M-1東京ハチミツオーケストラ”

 この曲について書くならひとつだけです。みんな、この曲のライブ版を観るために『チャットモンチー レストラン メインデッシュ』を買おう!初の武道館、アンコールで披露されたこの、“東京ハチミツオーケストラ”。間奏でカラフルな風船が客席に降り注ぐなか、えっちゃんがポツリ「すごい!」とこぼす。全ての緊張から解放されたような笑顔と、他にもたくさん凝った演出があったのに、よりによってこのシンプルな演出に感激してる姿を見て、「ああ、えっちゃんってこういう人だったなァ」とこっちも感激できる映像になっています。

 

M-2 “さよならGood bye”

 “しかに漂う”“なたの歌で目が覚めた”“どろむ景色 まつげの上にのっかっている”(注 : 以下、強調・かな変換は筆者の手による) と、最初のAメロはすべてあ行で韻が踏まれていますね。さらに、ここに続くフレーズでは“よく焼けたンの匂い”“とんでもないボロシ”と、位置を変えながら押韻は続きます。しかも、後者では“と”でメロディーを変奏して意識づけるという徹底っぷり。これが何を目指しているかというと、サビにおける“愛され〜”と“愛し〜”のためのインパクトです。リスナーは知らず知らずのうちにあ行に意識を向けさせられ、サビでついに解放されるわけです。ね、すごい作りでしょう…とか言ってみたり。まぁこれは大袈裟としても、あっこちゃんの歌詞にはこういう遊び心がありますね。

 

M-3 “ウィークエンドのまぼろし”

 IV度スタートのコード進行が多いチャットモンチーにおいて、さらにその上をいくIIImスタートというハードコア。え?この曲キーはBmじゃないの? (この曲の実際のキーはEm) を否定するかのようにたたみかけるC△7。特別複雑な進行ではないものの、攻めまくったコード進行が最高です。

 

M-4 “ハナノユメ (ALBUM Mix)”

 他のどのバージョンと比べてもドンシャリな音になってます。えらいパンチのある音ですねえ。聴く人によって好みは分かれそうですが、ワタシはこのバージョンが初聴きなのでこのミックスが基準です。他の“ハナノユメ”では大サビに入る前に、謎の音圧が「ボーッ」って聞こえてくるんですが、このミックスでは聞こえない。あれは何なのでしょう。

 

M-5 “どなる、でんわ、どしゃぶり”

 ここまでの展開を断ち切るかのような超絶漆黒ナンバー。作詞は当然 (?) えっちゃん。初武道館の2日目、序盤の締めに待っていたのは “どなる、でんわ、どしゃぶり”“恋愛スピリッツ”“終わりなきBGM”“ひとりだけ”の4連発という、地獄のエリコゾーンでした (褒め言葉)。この業火は武道館を余すことなく焼き尽くしはしましたが、荒廃した大地からはいつしか、ぽつぽつと手を叩くように緑が芽生え始めたそうな。これが有名な『生命力』の命名理由です。ウソです。冗談はさておき、激しい情念が渦巻くこの曲もえっちゃん節全開で最高ですね。暗い重いを地でいく佳曲。

 

M-6 “一等星になれなかった君へ”

 本文のほうにある程度書いたので、こっちでは短めに。100億光年は時間じゃなくて距離ですが (ポケモンの有名?なアレ)、光が届くにも時間はかかるので、やっぱり「100億光年の時を超え」は何も間違ってないと思います。論争みたいなものがあるようなので一応。

 

M-7 “おとぎの国の君”

 構成の妙が光る曲。A→A→B→C→Aってスゴいな?沈んだAから徐々に熱を帯びていき、Cで演奏が最高潮に達するとそのテンションのまま、ボーカルがラストAでまた一旦沈むのがいいですね。

 

M-8 “恋の煙 (ALBUM Mix)”

 1st Single。1サビ抜け後のギターはB-C#-D-Eと上昇し、ベースはB-A-G-F#と下降するパートは3ピースの基本のみならず、音楽的にも非常に正しいのでビギナーはぜひ覚えておきたいテクニックだ (何様やねん)。それはともかく『チャットモンチーと機械仕掛けの秘密基地ツアー2017』で披露したバージョンが凄く良かったのでもう一回聴きたいんですけど、映像化しませんかねぇ。

 

M-9 “恋愛スピリッツ”

 2nd Single。NHK-BSの武道館ドキュメンタリーにあったインタビューにおいて、えっちゃん本人の口から歌詞の内容は実話だと述べられた瞬間、全国のえっちゃん好きによる悲鳴が天を衝いたそうです (大嘘)。しかしワタシほどの狂信者になると、もはやこの歌は自分のことだと錯覚しているので「うんうん、だからあなたは私を手放せないんだよね」などと思ってしまうのでした (我ながら最高にヤバい)。

 

M-10 “終わりなきBGM”

 本文のほうにも書いたとおり、この『耳鳴り』というアルバムでは、物語を語ることがちょくちょく出てきます。この“終わりなきBGM”でも歌い出しにあるように、物語を語ることに触れていきますが (そもそもBack Ground Musicということから明らかだ)、どこかで共有可能な物語になることを否定しているような印象を受けます。ではなぜそう感じるかというと、ここで語られる物語は終わることがないからなのですね。映画がどんな波乱の人生を描いたところで、2時間経てばエンドロールが流れ出すように、物語はどこかで必ず終わらなければならないのです。しかし、“終わりなきBGM”ではあらゆる時間感覚がピンボケしており (以下引用)、

 

ふと気づくと もう空 赤

終わりなきBGM/ チャットモンチー

 

目をつぶると同じ空よみがえる

終わりなきBGM/ チャットモンチー

 

といった具合で、一向に最後が見えてきません。唯一終わりが示されるパートの、

 

長縄跳びの最後の1回

彼つぶやいた 

終わりなきBGM/ チャットモンチー

 

に出てくる彼すら、

 

「遠回りで帰ろっか」 

終わりなきBGM/ チャットモンチー

 

と、終わりを延長する始末です (ゆえにタイトルが“終わりなき”となるのだ)。この結果として生まれるのは、「彼」と「(省略されていますが) 私」の2人だけの濃密な空間であり、描写される空の赤と相まることで、胸をつく情景となるのですね。そりゃあ綺麗な空に決まっていますとも。天才•橋本絵莉子の叙情が遺憾なく発揮されていて、大好きな曲です。

 

M-11 “プラズマ”

 『耳鳴り』リリースにあたっての座談会で、いしわたり淳治が「日本で初めてDVDと絶叫する女の子」と発言しており、そりゃそうだよなと吹き出しましたが、後釜は出現したのでしょうか。それとも、すでに誰かがブルーレイとか叫んでるのでしょうか。特別知りたいワケでもないけれど。しかしチャットモンチーはちょくちょくテクノロジーに接近しますね。

 

M-12 “メッセージ”

 アコギやピアノが重ねられており、このアルバムを (裏から) 象徴するようなサウンドプロダクションの一曲。枯れたソロや歪んだギターを引っ張りながら、触れたら千切れそうなテンションで曲は進行していきます。ただ、現状ライブ映像を見ようと思っても、『チャットモンチー BEST 2005 - 2011』の初回生産限定盤に同梱された『足跡』でしか見られない。持っている人はかなりラッキーだ (ただし、『耳鳴り』のForever Editionに恐らく同じライブの音源が収録されている)。

 

M-13 “ひとりだけ”

 歌い出しのギターバッキング、どうなってんの…なぜあのリズムであのメロディーが歌えるのか…。ギターが弾ける人は試しにやってみると分かるはず。メロディーがギターにつられるのではなく、ギターがメロディーにつられて無難なバッキングパターンになってしまうという、逆転現象が体験ができるよ!え?別にレコーディング音源だから変じゃないって?これがライブでも同じバッキングパターンなのだ (しかもえっちゃんは平然と弾いている)。気になる人はゼヒ確認してみよう。

 

『chatmonchy has come』/ チャットモンチーの一人称 <1>

 『chatmonchy has come』から『共鳴』までチャットモンチー横断マラソン始まりました。何でそんなこと始めたのかは前のエントリに書いたので、読んでない方はよかったら読んでみてねっ。

 

ddfl.hatenablog.com

 

 第一回目の今回は、記念すべきメジャーデビュー盤である、1st mini albumの『chatmonchy has come』を取り上げたいと思います。

chatmonchy has come

リリースはなんと2005年。もう10年以上も前になるんですね。無骨なようでいて人懐っこく、繊細なようでいて図太い。そして何より素直でありながら、強い反骨心も顔を覗かせる楽曲たちは今聴いてもなお、変わらぬ魅力を放っています。

 

 …という書き方でもいいんですが、こういう内容はどこかで誰かがもっといい文章を書いているでしょう。なのでワタシは別の方向から行ってみたいと思います。そんな訳でどこに注目してみるかというと、チャットモンチーの使う一人称についてです。

 

 一人称。ここを見ればその歌詞が、何を表しているかだいたい分かるのです (多分ネ!)。真っ先に分かるのが歌詞の登場人物の性別ですね。使われた一人称が「僕」ならば男性でしょうし、「私」ならば女性でしょう。とはいえアーティスト自身と歌詞の性別が一致することは必ずしも重要ではなく、例えば女性アーティストの歌う「僕」に、さほどの違和感を抱くことはないかと思います。これはなぜかと言うと、必ずしも一人称が特定の個人を指していない場合があるからですね。この辺のハナシはまたちゃんと改めて書けたらいいなあ (よって省略)。

 

 では、チャットモンチーはどのような一人称を使っているのでしょうか。ご存知の通り、チャットモンチーはメンバー全員が作詞するバンドです (しかもほとんどの曲は詞先で作る)。なのでえっちゃん、あっこちゃん、クミコンのそれぞれがどのような一人称を使っているかを分けて考えてみる必要がありそうです。

という訳で、まずは『chatmonchy has come』においてどんな一人称が使われているのかを見てみることにしましょう。あと、補足的に『耳鳴り』も見てみます。文章にすると読みにくいので表にしてみますね。

 

表1 : 『chatmonchy has come』における作詞数、および一人称

作詞者

作詞数

一人称

橋本絵莉子

2曲 (“惚たる蛍”“夕日哀愁風車”)

「私」

福岡晃子

1曲 (“ツマサキ”)

「私」

高橋久美子

2曲 (“ハナノユメ”“サラバ青春”)

「僕」

その他

橋本・福岡共作 (“DEMO、恋はサーカス”)

なし

 

表2 : 『耳鳴り』における作詞数、および一人称

作詞者

作詞数

一人称

橋本絵莉子

4曲

(“どなる、でんわ、どしゃぶり”“恋愛スピリッツ”

“終わりなきBGM”“ひとりだけ”)

「私」

福岡晃子

6曲

(“東京ハチミツオーケストラ”“さよならGood bye”

“おとぎの国の君”“恋の煙”“プラズマ”“メッセージ”)

「私」「わたし」「僕」

高橋久美子

3曲

(“ウイークエンドのまぼろし”“ハナノユメ”

“一等星になれなかった君へ”)

なし

 

 やや意外だったのが、あっこちゃんは漢字の「私」も使うんですね。“染まるよ”や“Last Love Letter”の印象が強いので一人称はひらがなの「わたし」表記がほとんどかと思いきや、『耳鳴り』では「私」「わたし」表記のどちらもありました。そしてクミコンの歌詞はこの2枚に限るとほとんど一人称使ってないですね。この辺りも何か象徴してそうなので、のちのち考えてみることにします。

 

 さてここから本題ですが、面白いのがえっちゃんの「私」なのです。今作に収録された“惚たる蛍”はインディーズ盤チャットモンチーになりたい』にも収録されており、アレンジ含めいろいろと違っていて興味深いのですが、一番の変更点はAメロの「私」を「あたし」と歌っているところでしょう*1。録音物はともかくライブはどう歌ってるのかと思い、レストランシリーズ (スープ、メインディッシュ、デザートに収録) の“惚たる蛍”を観たけど全部「わたし」でしたね。まあ『〜になりたい』が2004年、『〜has come』が2005年、『〜デザート』収録の“〜蛍”が2007年 (映像ではこれが一番古い) なので何もおかしくないけれど。

 (参考までに余談をば。いろいろググるとオークションサイト等でインディーズ盤のブックレットを見ることができますが、“惚たる蛍”の歌詞における一人称は全部「私」表記になっている。アレ?てっきり「あたし」表記してると思ったのに。まあ別に漢字でも「あたし」と読めますが。)

 

 閑話休題。“惚たる蛍”のみならず、インディーズ期でのチャットモンチーはほとんどの一人称が「あたし」となっており、何らかの変化を窺わせます。メジャーデビュー時に「一人称は私に統一しなよ、そっちのほうがいいよ」とか言われたんじゃないですかね (エ、邪推だって? でもいしわたり淳治すら言ってるけど、バンド名が幼いって相当ツッコまれたらしいしどうでしょう)。

 もちろん、インディーズ版“惚たる蛍”でも1番Aメロ以外は「わたし」歌唱なのだから、音で選んでいるんじゃないかという意見もあるでしょう。もちろんその意見は正しいと思うし、サビ頭が「あたし」の場合と「わたし」の場合、音的に情念を込められるのは「わたし」になるでしょう。

 

 しかし、ここでひとつ情報を出しましょう。これは『耳鳴り』のリリース時の対談記事 (WayBackMachineで復活) なのですが、

 

https://web.archive.org/web/20070814041719/http://www.towerrecords.co.jp:80/sitemap/CSfLayoutB.jsp?DISP_NO=003783

 

 記述なのでやや信頼性に欠けるものの、対談の中でえっちゃんの一人称が「あたし」になっていますね。過度に創作物と作者を同一視するのはイヤなのですが (とはいえこの対談記事の中でも“恋愛スピリッツ”や“どなる、でんわ、どしゃぶり”はほぼ実話って言ってることだし大目に見てネ)、多分「あたし」の方が素に近い一人称なのでしょう。だからこそ、メジャーデビュー時における歌詞の一人称の変化は、ジツは結構大きいトピックスだと思うのです。

 

 なぜ大きいトピックスなのか?では想像してみてください。一人称が「あたし」と「わたし」の歌詞では、それぞれにどんな印象を抱くでしょうか。「わたし」の方は何となくニュートラルな印象ですね。

 一方で「あたし」の方には、明るさ・活発さという印象を受けるでしょう。しかしその反面、特に書き言葉の分野ですが、「あたし」という一人称に「年不相応、幼稚」といったような、ネガティブなイメージも持たれやすいように思えます。もちろん実際のことは分かりませんが、先述したバンド名へのツッコミもあることだし、無用に幼いイメージを持たれることを回避するために一人称を変えたというのも、あながちありえない話ではない気がするのです。

 

 だけどそれだけじゃ面白くないですね。理由はともかく、このメジャーデビューというタイミングで一人称を変えたということが、もっと別の何かを象徴していたようにワタシには思えるのです。ここからはそれが何なのかを考えてみることにします。ちなみにここが本記事の折り返し地点です。

 

 さて、一人称の変更が何を象徴しているのかを考えることにしたんでしたね。そのためにはまず、『〜has come』に収録されたふたつめのえっちゃん作詞曲、“夕日哀愁風車”の歌詞の一部を見てみましょう。これ、えっちゃんの歌詞の中ではかなり異色だと思うのですが、どうでしょう (公式のディスコグラフィーによると最初期のナンバーらしいので納得ですね)。

 

ひとりになれなくて 思いが伝えられなくて

こわくて さびしくて これじゃやっていけないわ

 

ちゃんと生きていけるだろうか?(ちゃんと大人になれるだろうか?)

誰かに言いたくても口に出せない (夢ってなんだろうか?)

夕日哀愁風車 / チャットモンチー

 

 

 まず、歌詞の「ちゃんと生きていけるだろうか?(ちゃんと大人になれるだろうか?)」の根っこが何かというと、「ちゃんと生きなければならない (大人にならねばならない)」でしょう。そして「ちゃんと生きる」ことや「大人になる」ことが何かと言うと、「思いが伝えられなくて」=「意思を表明する」ことだったり「涙をぬぐって進んでいける」ことだったりと示される。いしわたり淳治デビューに寄せてという文章にちょうどいい記述があったので引用しますが (直リンクじゃないのでページ内のSPECIALから探してネ)、彼が言うところの「清潔な生い立ち」と無関係ではないでしょう。

 

 しつこいことは承知でもう一度注釈したいのですが、だからといって「えっちゃんはこういう人だ」という議論がしたいのではありません。音楽という表現形態である以上、誰が作って誰がパフォーマンスしたかはとても重要な要素ですが、その背景を探ったところで結局は憶測にしかならないからです。それよりも、ここでは表現されたものから何を受け取れるかを重視したいのです (何のこっちゃって?要約しましょう、つまりはワタシの自分語りを聞いてくださいってことですネ)。

 

 話を元に戻しましょう。“夕日哀愁風車”のテーマとは先述のとおり「大人になること」=「成長すること」であり、とりわけ歌詞の中で強調されるのは成長に対する「苦しさ・不安」なのですが、ここにえっちゃんの筆致が出現するわけです。最も顕著な一文を引用しましょう。

 

楽天的な私はどこにいった? (昔に戻りたい)

夕日哀愁風車 / チャットモンチー

 

 

 これは現状の不確かさからくる不安ですね。しかし当然ながら「成長したくない」から“昔に戻りたい”のではなく、「成長しなければならない (と思う)」から苦しいのであって、逃避として“昔に戻りたい”と願うわけです。○○しなければいけない (のにできない)、これがえっちゃんの作詞に通底する葛藤であり、ワタシはそこに引き裂かれている何かを見るのです。

 

 では何に引き裂かれているのか…と煽ったわりにはさらっと書きますが、これは「理想」と「現実」だと言っていいでしょう。話が先のアルバムにまで及ぶためにここではあまり項を割きませんが、このテーマは現時点 (2017年10月) で最新作の『Magical Fiction』収録の“ほとんどチョコレート”まで、形を変えながら続いていきます。

 

 では具体的にどう表現されているのか、『耳鳴り』収録の2ndシングル、“恋愛スピリッツ”を例に見てみましょう。これもインディーズ時代からある曲ですね。

 

あの人をかぶせないで あの人を着せないで あの人を見ないで私を見てね

恋愛スピリッツ / チャットモンチー

 

 

 …さっき書いたことそのままやん!理想vs現実。曲聴けばいいんだからこの文章はもう蛇足にしかなりませんネ。でもあとちょっとだけ続きますよ。何もそんなに思い詰めなくても、と思う方もいるでしょう。けれど、だからといって簡単に割り切れないからこそ音楽に昇華されたのだろうし、ワタシはそこにある必死さに胸を打たれるわけです。えっちゃんの歌詞に浮かび上がる切実さ・生々しさとは、引き裂かれることは辛いのだ、ということに詩情を見出したものに他なりません (それを言葉にできるから彼女は天才なのです)。この自己愛的な情念の強さが、(とりわけ) 初期チャットモンチーの原動力だったのではないかと思います。そして、その情念がワタシにとってチャットモンチーの何よりの魅力なのです。

 

 さて、ここまで読んでくださった忍耐強い方ならなんとなく覚えがあるでしょう…そういえば他にも分断されていたモノがありましたよね?そう、「あたし」そして「わたし」という一人称です。

 『チャットモンチーになりたい』以前には存在し、『chatmonchy has come』以降ではその姿を消す「あたし」という一人称。ナルシスティックさを含むその甘美な響きは、理想と現実、成熟と未熟の間に揺れる歌詞をひそかに象徴していました。それがメジャーデビューというタイミングで「わたし」に統合されたことには一抹の寂しさを感じるものの、『チャットモンチーになりた(い)』かった「あたし」が、『chatmonchy has come = チャットモンチーがやってきた』と宣言する「わたし」になったのだから、実はとても自然なことだったのかもしれません。ひっそりとした、けれども大きなこの変化に偶然以上のものを見てしまうのは、ワタシがチャットモンチーの、とりわけえっちゃんの狂信者だからでしょうか。

 

 …エ?散々電波ばら撒いといて結論はそんなこじつけみたいなオチかよ、って?ええ、その指摘はごもっともです。本人たちも絶対こんなこと考えて曲作らないでしょうしねぇ…。デモ…デモ…ワタシはチャットモンチーの考えてるんだか考えてないんだか分からない、けど何でかそうなっちゃってる (風に読める) 部分がダイスキなのです。ですから多少の暴走は許してね!

 冗談はさておき今回のエントリではえっちゃんの歌詞についてしか書いてないので、次回『耳鳴り』ではあっこちゃんとクミコンの歌詞について書こうと思っています。よかったら読みに来てくださいな。

 

 

 

全曲ひとこと感想コーナー

 

M-1ハナノユメ”

 サビのコード進行が G – A – D – G – F#7 - Bm7と展開し、アルバムを象徴するような進行を見せる。“ハナノユメ”だけに限らず、チャットモンチーはIV度はじまりをそこそこ使いますね。

 ついでなのでもうひとつオマケに言っておくと、F#7などの5thのシャープ音がコードに頻出するワリに、メロディーの5thはシャープしないのがチャットモンチーメロディーの特徴です。そしてメロディーのはじまりを3thにすることで調性をハッキリさせ、その後コードに5th#を入れ短調感を出す、これがチャットモンチーのハーモニーにあるトゲの正体なのでは。おや?ハナノユメで歌っていることそのままじゃないか。

 

M-2 “DEMO、恋はサーカス”

 詞がえっちゃんとあっこちゃんの共作。でもどういう風に共作してるのかが分からない。おそらくほとんどあっこちゃんの作詞で、えっちゃんが“なんで〜”の部分を足したんじゃないかなあと推測。内容はあっこちゃんのテーゼなのか、この後も“ときめき”などで出てくる感情ですね。

 

M-3 “ツマサキ”

 特徴的なコード進行を見せる曲。実際に書き出してみよう。AメロがI-IVの繰り返し、BメロはVIm-Vの繰り返し、そしてサビでIV-Iの繰り返しという構成 (微妙に変化はあるが)。超シンプル。コード進行の原理原則に (厳格に) 従えばBメロ最後のVからサビ頭IVは禁則事項だが、ギターのフィードバックが無理やりにでももっていきますね。と思いきや2番では進行がVIm – V – IV –Vとなり、フランジャー+キメでまたしても強引にもっていく。VからIVに進行する柔らかさ (解決感のなさ) を、いかにしてパンチのあるサビにするか工夫したのでしょう。IVをどう使うかがチャットモンチーのコード進行を決定づけているような気がしますね。チャットモンチーの曲があんまり弾き語り感ないのもこの辺りに由来しそう。

 

M-4 “惚たる蛍”

 初期チャットモンチーの代表曲 (かな?)。本文では“夕日哀愁風車”のことばかり書きましたが、“惚たる蛍”も同じテーマを持っていると思います。初期のえっちゃんはひとつの事象をあっちからこっちから書いていますね。

あぁ 私はあなたのその目に左右されていて あぁ 私はあなたにこの目も向けられない

と「目」に主眼を置きながら、違う状況を描き出しているラインが白眉。加えて言うならば、それが全て「私」サイドから語られているのがポイントですね。

 

M-5 “夕日哀愁風車”

 裏打ちで爆走するナンバー。もう本文でいろいろ書いたけど、あとひとつだけ。大サビで盛り上げ、決意めいた宣言がなされたのちに最初のナーバスなAメロに戻る構成がこの曲のキモですが、こうすることによってリアリティある表現になるのだと思います。当然それは物事には裏も表もあるんだよ、なんてことではなく、成長することはそもそも基本的にナーバスなことなのだ、と言っているのです。その不自由な自由さを受け入れる (≒諦める) ことが成長の一側面だと思いますが、まだこの曲ではそこに気づいていなさそう。ただし、なんとなく勘づき始めているので居心地が悪いのですね。そういうドキュメントさが素晴らしい。この時期にしか書けないでしょう (なんて偉そうなんだ)。

 

M-6 “サラバ青春”

 サビ頭のI – IIIの時点では全然サラバしてない (?) サラバ青春。しかもIIIの上で、メロディーは5thのナチュラルですよ。なんでそんなこと思いついたんだ…とはいえこの5thの使い方は、“ハナノユメ”のところで書いたチャットモンチーメロディーの体現ですね。こんなヒネたメロディーの乗せ方するくせに、終わりはIV – Vでストレートに締めるあたり、つくづくチャットモンチーは反骨心の塊でありながらも素直なんだなあと思います。

 

↓”サラバ青春”が使われていますね

 


103系引退スペシャルムービー 「LOOP 大阪環状線」

 

10/23 画像、リンク、ムービーを追加。

*1:厳密に言えばえっちゃん作詞曲だけではなく、あっこちゃん作詞曲の”素直”もアマチュア版では一人称が「あたし」になっている

はじめに

ブログをはじめるにあたって

 

チャットモンチーに関する面白い文章が読みたい」

 

 始まりは、こんな願望でした。自分のチャットモンチー評に対して自信がなくなっていた時期でした。自分で書こうと思った理由は、自分と似たようなことを考えている人が見つからなかったから。いくら探しても出てこないだろうし、逆にこれはチャンスだと思ったのです。

 

 内容は、できるだけ分かりやすく、そして客観的に書こうと思いました。ある程度書いてから振り返ってみると、まんまと、自分の理想や願望ばかりの内容でした。極私的な内容を、それでも読み物として成立させるのは、とても大変で、夜中に書いたラブレターを読み返すような不思議な感覚でした。

 

 いつも素晴らしい音楽を届けてくれるチャットモンチーに、感謝です。

 

 …めちゃくちゃ失礼な序文ですね。わざわざこんなブログを見つけてくれた人には説明する必要ないと思いますが、一応ネタばらしするとこれは『橋本絵莉子波多野裕文』リリースにあたり、えっちゃん (橋本絵莉子) が書いた文章のパクリです。別に茶化してるわけではなく、ただちょっとだけファン心理が歪んでるだけなんです、大目に見てくださいネ。

 

 それはさておき、ワタシはチャットモンチーの、とりわけえっちゃんの狂信者です (なにがさておきなんでしょうね)。思春期真っ只中に“橙”を初めて聴き、「これは自分のことだ」と心臓を撃ち抜かれて以来、彼女の存在は神にも等しいものになったのです。今振り返れば、自己愛が混じった剥き出しの歌詞が当時の気持ちを代弁してくれたように感じたのでしょう。

 

 しかしその一方で、「チャットモンチーの持ってるナルシシズムに言及してる人、あんまりいないな」と思います (ナルシシズムという表現が強すぎるのは理解してます)。というかワタシの第一印象が“橙”なので、チャットモンチーナルシシズムを歌うバンドだという印象なのですが、どうにも同じような意見に出会えません。いろんなブログを読んでも、amazonのレビューを読んでも、公式のディスコグラフィーを読んでも出会えない。

 ええ、分かっていますとも。おかしいのはどう考えてもワタシのほうです。ワタシが言うところのナルシシズムに言及せずとも、同じ論旨を持った文章はいくらでもありました。というかそもそもナルシスズムじゃなくてアイデンティティとか自立のハナシじゃない?とも思いました。それに、こんな微に入り細を穿つようなマネをしていったい何になるのでしょう。そんな風にして駄文をこねくり回すより、チャットモンチーは素晴らしい、たったその一言で充分でしょう?

 

 そうなのです、チャットモンチーは素晴らしいのです。けれど素晴らしいがゆえに、ちゃんと語られることが少ないように思えるのです。当たり前のことほどわざわざ語らないものでしょう。だからこそあえて、何が素晴らしいのかを語るという無粋をやりたいのです。

 

 ではチャットモンチーの魅力とは何なのか、と問われればやはり、そのまっすぐさだと答えます。強さにも弱さにも、いいところにも悪いところにも真正面から向き合うその切実な音楽に、ワタシは強く惹かれてしまうのです。

 …なんて書きつつ自分でツッコみますが、まっすぐさって何でしょう。抽象的ですね。ここはもう少し意図を正確にするために、ワタシはチャットモンチーのどこにまっすぐさを見るのか、と書くべきでしょう。強さにも弱さにも、いいところにも悪いところにも真正面から向き合う、と先述しましたが、それはどこからそう考えたかを追求するべきなのです (少なくともこのブログではね)。

 

 ではその根拠を。詳しくはのちのエントリに譲りたいと思いますが、ワタシはチャットモンチーのまっすぐさの根元には、倒錯性が潜んでいると思うのです。念のために書いておきますが、倒錯性とは、東京 – 徳島 (地方) だとか、男 – 女のような対立構造のことではありません。チャットモンチーが「徳島発のガールズバンド」として紹介され、本人たちもそのことに対して自覚的であったのは各所で語られている通りですが、それはあくまでチャットモンチーの持つ属性のひとつに過ぎません。ワタシにはそういう方向の話をする能力もやる気もないので、このブログで書くつもりはないです。

 

 それよりもワタシが言いたい倒錯性とは、“恋愛スピリッツ”のようなことなのです。最後で

だからあなたは私を手放せない

だから私はあなたを思っている

に転換されるダイナミズム。思わずガッツポーズですよ。これ冷静に考えれば共依存だと思うんですけど、ここに“恋愛スピリッツ”なんてタイトルをつけて詩情を見出してしまう (音楽にしてしまう) のがチャットモンチーであり、橋本絵莉子なのです。この感覚に、ワタシはまっすぐさを見つけるのです。そしてワタシはそこにめちゃくちゃ肯定感を感じるのですが、皆さんはどうでしょうか。こういうことを書きたいのですね。

 

 そんなわけでこの歪んだ思いを書くためにあらためて全アルバムを聴き直したんですが、その結果ちょっと方向を転換することにしました。というのもワタシ、最初はえっちゃんの話題しか書くつもりなかったんですが、想像以上にチャットモンチーは、作品が進むごとに変化しているのだと感じたのです。そしてそれがかなり必然性のあるものというか、要するに面白かったんですね。特にクミコンの詞はこういう機会がなかったら、その面白さに気づけなかったかもしれないぐらいインパクトがありました。

 なので、『chatmonchy has come』から『共鳴』までチャットモンチーがどう進んでいったのかを、リリース順に書いていこうと思います (ぶちあげたなあ)。時系列順に追っていくことで、表現されたものの点と点が線を結び、何かしらの像が浮かび上がってくるでしょう。そしてその果てにあなたをワタシと同じような狂信者に洗脳できれば最高ですネ。

 

 さて、そのチャットモンチーの歩みを探る方法ですが、基本は歌詞を中心に見ていきます。当然音楽なので聴くのが一番だし、本当ならアレンジについても触れていくべきなんでしょうが、余程のことがない限り歌詞だけでいきます。みなさんもご存知の通り、チャットモンチーはほとんどの曲が歌詞先の作曲なのでまあ筋道は通るかなと思います。

 

 …おそらく何回も注釈を入れることになるとは思いますが、歌詞に焦点を当てるとはいえ、かといって「作詞者がこういう人だ」という議論をしたいのではありません。当然、誰が作って誰がパフォーマンスしたかは表現において大事な問題ですが、創作物と創作者を過度に同一視しない、というのがワタシのスタンスです (その視点でいくと結論が推測にしかならないので)。話の展開上、「◯◯の歌詞に通底する論理はこれです」みたいな書き方を多用すると思いますが、これは創作者そのひとを指しているのではなく、どこに表現的なツボがあるのかを議論したいと思ってくださいね。

 

 そして最後に余談を。ここまでかなり偉そうなことを書いておきながら、ジツはワタシ『生命力』でチャットモンチーに出会い、『変身』でいったん離れ、『橋本絵莉子波多野裕文』を聴いて『共鳴』に帰り、『Magical Fiction』が久々のリアルタイムとかいう、けっこうミーハーな遍歴です。なので、アレです、見当違いなこと言っても生暖かい目で見てくださいネ (オイ)。では以降のエントリでお会いしましょう。